ART NEWS TOKYO2021. 07

篠山紀信の写真人生を象徴するシリーズ、それが「晴れた日」なんです

スペシャルインタビュー:篠山紀信(写真家)

取材・文:山内宏泰  撮影:星野洋介(※1を除く) 


 

時代の旬を鮮烈にとらえた写真によって、1960年代から写真の第一線で活躍を続けている篠山紀信。その60年にわたる足跡を俯瞰する個展「新・晴れた日 篠山紀信」が、2021年8月15日(日)まで東京都写真美術館にて開催されています。意外にも同館で篠山さんの展覧会が開催されるのは初めてのこと。1975年に出版された写真集『晴れた日』を展覧会の「核」とした構成の意図や、開催への思いなどについて、篠山さんにお話をうかがいました。

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時代の並走者、篠山の60年をどうやって展覧会にするか

ふつう写真の展覧会といえば、被写体やテーマが何かしら一貫しているものじゃないですか。そうであってこそ、まとまった展示として観られるものになる。東京都写真美術館学芸員の関昭郎さんが訪ねてきて「個展をしませんか」と声をかけてくださったとき、真っ先に私が懸念したのはその点でした。率直に言って私の写真じゃ、美術館が求める「まとまり」を生み出せないんじゃないかと思いました。

 

 

というのも私は写真を始めて60年このかた、自分のおもしろく感じるものを気の向くまま好きに撮ってきただけ。その結果、被写体もテーマも技法も機材も多種多様、みごとにバラバラです。ですから仮に私の仕事の全体像を見せるような、いかにも美術館らしい展示をつくろうとするなら、3〜4枚の写真でひとつのシリーズの「サワリ」を見せて、それを無数に連ねるかたちにならざるを得ない。それじゃ下手すれば、30人くらいの写真家の仕事を集めたグループ展か何かと勘違いされてしまいそうで、こちらとしてもあまり気分が盛り上がってきません。

 

「晴れた日」シリーズ展示風景

 

ところが関さんは、さすが百戦錬磨の学芸員。いい腹案を隠し持っていました。「私が一番見せたいのは、『晴れた日』です。あのシリーズを核に展示を構成したい」と仰るのです。『晴れた日』というのは、1974年に週刊雑誌「アサヒグラフ」で連載したもの。その週の最も旬な人や場所や出来事を、撮ってはすぐ掲載し……ということを半年間続けました。そのとき一番輝いているものを、さっと撮ってパッと出す。思えばこれって、私が60年の写真人生でずっとしてきたことでもあります。ということは『晴れた日』というのは、私の写真を象徴するシリーズと言えるじゃないかと、改めて気づかされました。

 

展覧会タイトル「新・晴れた日」は、篠山が特派員として週刊雑誌「アサヒグラフ」に連載した写真を軸にまとめられた写真集「晴れた日」(1975年発行)が元になっている。

 

そうか、だったら半年で終わった『晴れた日』の形式を60年に引き延ばし、『新・晴れた日』として提示してしまえばいい。そうすれば私と写真の関わり方をよく示す、「篠山紀信の写真論」としての展示ができそうだと思い至りました。『晴れた日』が毎週まったく違う題材・撮り方の写真を載せていたのと同じように、『新・晴れた日』の展示では壁面ごとに種類の違う写真をどんどん掲げていけばいいわけです。いいアイデアを与えてくれた関さんに感謝です。

まさに「写真の時代」だった1970年代

「晴れた日」を連載していたころの『アサヒグラフ』がここにありますが、いま見るとやっぱりいいですね。巻頭から何ページにもわたって写真だけで誌面を構成してあるし、表紙だって私の写真をドンっと大きく使ってくれている。当時はまさに「写真の時代」だったんだと、改めて感じますよ。

 

「アサヒグラフ」の連載では、エンタメ、スポーツ、政治から日常のひとコマまで、その週の旬な話題を篠山が選定し、毎回異なる撮影方法で写真におさめていたという。 ※1

 

1970年代は、写真でこんなことができるんじゃないか、こういう実験的なものはどうだろうなどと、どんどん新しい表現の可能性が試されていた。作品を発表する媒体も豊富で、写真雑誌だけで10誌以上ありました。広告写真をつくるとなればすごくお金をかけられて、日本のカメラメーカーはぐいぐい実力をつけ世界に進出してやろうという勢いも持っていた。

 

私もひとりの撮り手として、あのころは確かにいつもワクワクしていたものです。そういう気分でいると、不思議なほどどんどんいい写真が撮れる。なんというか「時代に撮らされてる」ような感覚がありました。

 

 

それが今や、時代はすっかり写真と結びつかなくなってきてしまった。写真がこの世からなくなることはさすがにないでしょうけど、写真表現の幅はぐんぐん小さくなっています。紙の媒体は減るばかりで、代わりに何でもデジタルで済ませる世の中です。

 

デジタルが悪いとかダメとは言いませんが、あれは従来のフィルム写真とまるで別物なのはたしかです。ということは、ここでいったん「写真は終わった」と考えることはできるでしょう。私は写真のラストランナーを引き受け、走り抜いてきたというところでしょうか。だから私のことを、「最後の写真家」と呼んでくださっても差し支えありませんよ。

 

私は写真が特別に輝いた時代に偶然ピタリと居合わせることのできた、幸運な写真家だったわけです。私が経験してきたような「幸福なる写真の時代」がまたやって来るとは思えない。時代の条件が違うのだから、篠山紀信と同じことのできる写真家なんて、今後二度と現れないというわけです。

写真で周りの人が喜んでくれるのが一番

3台のカメラを連結して撮影した”シノラマ“で撮影した「TOKYO NUDE 1990」の前で

 

これは篠山紀信そのものをテーマとした、他に類を見ない展覧会なわけですが、観た人からは「会場を巡るほど、篠山紀信の写真がどういうものかわからなくなってしまった」なんて言われたりもします。おもしろいですね。これは写真という表現の特色でしょう。創意を尽くして写真のエッセンスをギュッと画面の中に絞り出そうとすればするほど、撮っている人の存在感なんて薄れていってしまう。そこに残るのは、ただ被写体の姿ばかり。それが他のジャンルのアートとは異なる写真の魅力ですよ。

 

苦心した作品に自分の痕跡が残らないのは寂しくないかって? まさか、まったく問題ありません。「自分の表現」や「エゴ」を見てもらいたくてやっているんじゃありませんから。私にとってはそんなことより、写真で周りの人が喜んでくれるのが一番です。

 

イサム・ノグチ、坂東玉三郎、野田秀樹、中村勘三郎など、時代を象徴する著名人も数多く撮影。

 

私の写真の原点は、小学4、5年生のときの出来事にあります。新宿の実家の近くに住んでいた外国人が飼っていたシェパードを、家のカメラで何気なく撮ったら、思いがけずうまく撮れた。カメラ店でプリントしてもらって飼主に渡すと、こちらがびっくりするほど喜んで、ベタ褒めしてくれました。撮っただけでこんなにありがたがられるなんて、最高だなと思いましたよ。そのときから写真がどんどん好きになって、今に至ります。

 

人に見せたい。喜んでもらいたい。それさえあれば私の表現は完成し、エゴはじゅうぶんに満たされます。この「利他性」に満ちた精神とでも言いましょうか、そんな境地にまで人を連れていってくれる強烈な力が、写真にはあると思いますね。

 

でも本当のところをいうと、目の前の誰かを満足させてあげられるのと同時に、自分のほうがもっと愉しみを味わえるのが写真なんです。だって、カメラを通してすべてを見ているのは私だし、いい写真を撮って最終的に褒められるのも私なんですから。他者も自分もじゅうぶんに欲望を満たすことのできる、なんとも欲張りなもの。それが写真なのです。そんな写真の魅力を、会場でたっぷり味わってもらえたら作者としてはうれしいかぎりです。

 

プロフィール

篠山紀信(しのやま・きしん)
1940年東京生まれ。日本大学藝術学部写真学科在学中の61年に広告写真家協会展APA賞受賞。広告制作会社「ライトパブリシティ」を経て、68年よりフリー写真家として活動開始。66年東京国立近代美術館「現代写真の10人」展に最年少で参加。76年にはヴェネツィア・ビエンナーレ日本館の代表作家に選ばれるなど、その表現は早くから評価を受ける一方で、1971年より『明星』の表紙を担当して以降、写真家として時代を牽引する存在となる。70年日本写真協会年度賞、72年芸術選奨文部大臣新人賞、73年講談社出版文化賞、79年毎日芸術賞、98年国際写真フェスティバル金賞、2020年菊池寛賞など受賞歴多数。

photo by Yoshiki Nakano