
2025年、世界陸上・デフリンピックの東京開催に合わせ、2020年東京オリンピック大会における文化プログラムのレガシーを継承・発展させた新たな取り組みとして『TOKYO FORWARD 2025 文化プログラム』と名付けられた3つのアートプロジェクトが都内で展開されました。
今回ご紹介するのは、2025年11月29日(土)に上野の東京文化会館 大ホールで上演された、ろう者と聴者が遭遇する舞台作品『黙るな 動け 呼吸しろ』です。
出演者・スタッフ共にろう者と聴者とで協働しながら舞台制作に取り組み、その経験を通して、公演参加者にとっても、観客にとっても、共生社会を実現するための気づきを見出せる場として、これまでにない画期的なクリエーションであると同時に、ろう者・聴者に関わらず誰もが劇場・ホールに足を運んで楽しむことができる作品となるよう、ホールロビーにて観客の多様なニーズに応える準備を充実させた公演でもありました。

違っていて当たり前、違っているからこそ価値があるアートの力
『黙るな 動け 呼吸しろ』は、東京都、アーツカウンシル東京、東京藝術大学の三者主催の文化プログラムで、100名を超える出演者・スタッフが関わり、実験・実証を繰り返しながら過去に前例がない創作プロセスに取り組み、上演に至るまでに2年以上を費やしたプロジェクト。東京藝術大学学長を務める日比野克彦さんが総合監修を、アーティストの牧原依里さんが構成・演出、ダンサー・振付家の島地保武さんが演出・出演を務めました。

本作が立ち上がった背景には、日比野さんが牧原さんとの出会いをきっかけに“ろう文化”の存在を知り、相対的に“聴文化”を意識するようになった経験が大きく影響しています。日比野さんと牧原さんの出会いは、2019年の『TURNプロジェクト』(障害の有無、世代、性、国籍、住環境などの背景や習慣の違いを超えた多様な人々の出会いによる相互作用を、表現として生み出すアートプロジェクト)でした。
一人一人の個性や違いが、表現の豊かさに直結し、作品の魅力として表れるアートの価値観のもとでは、同じリンゴを見て絵を描いたとしても、500人いたら500通りのリンゴの表現になるのが当たり前。つまり、違っていて当たり前で、違っているからこそ表現を通してその人らしさがわかったり、新たな視点に気づいたりすることができる点に面白さが見出される。“違い”自体が価値であり魅力であるという前提を持つアートの力こそが、『TURNプロジェクト』とも共通する、本作の創作プロセスの基盤となっています。
だからこそ本作は、劇場での観劇で完結するのではなく、作品を通して、私たちの社会に当たり前に存在する”違い“に気がつく機会になることで、劇場を出て日常の生活に観客それぞれが戻っていった先に起こる小さな気づきや変化が、社会を少しずつ動かしていく力を生むものとなるのです。

他者との“違い”を知ることから、気づき、想像し、協働する作品創造プロセスの探究
本作は、手話を使う『霧のまち』と音声言語を使う『百層』という2つの異なる文化をもつ街の住人が出会い、お互いの街の暮らしや文化を体験することで、互いの“違い”を発見し、わからない状態から共通認識を探り当て、次第に対話が生まれていく物語です。
ろう者のまちと聴者のまちが別々に存在する世界観は、牧原さんのほかドラマトゥルクの雫境さんと長島確さんを中心に考えられたもので、舞台上で繰り広げられる登場人物たちの戸惑いや気づき、試行錯誤の様子を、観客も同じように追体験することができる仕掛けが施されました。
舞台上に字幕の表示等があえてないため、手話の台詞が交わされるシーンでは、手話がわからない観客は『霧のまち』の言語を手がかりに、『霧のまち』の住人の会話の内容を想像することになります。一方で音声言語の台詞が交わされるシーンでは、音声言語がわからない観客は身体や口の動きを手がかりに、『百層』の住人の会話の内容を想像することになります。
つまり、聴者もろう者も互いに不自由さやわからなさを感じながら物語を追っていくことで、自ずと相手の立場を想像する仕掛けになっているのです。
これは、上演形態としてこれまでにはない画期的な試みですが、それ以上に上演に至るまでの2年間という長期にわたる創作プロセスにおいても、ろう者と聴者とが互いの“違い”に気づくことを繰り返しながら一緒に作品を作ってきたことに、このプログラムの大きな意義があると感じます。
まず、ろう者が先行してクリエイションを行ったあとに、聴者と合同稽古を進めていくという段階的な創作プロセスを踏んでいったそうですが、初めてろう者と聴者の合同稽古を行った際には、稽古の進め方や決定・変更事項の共有の仕方の違いに大きく戸惑ったといいます。それぞれの言語コミュニティの中ではアイディアの交換や合意形成が容易でも、異なる言語コミュニティの間で足並みをそろえてクリエイションを深めていくうえでは、情報共有が課題となったようです。
しかし、稽古と並行して、ろう者・聴者それぞれのまちを想像するワークショップや、牧原さんによるろう文化勉強会、コミュニケーション研修など、出演者・スタッフにとってインプットや意見交換の機会も多く設定されたことで、作品自体や自分とは違う他者に対する理解を深め、作品創造のプロセスに参加するワンチームとしての一体感が醸成されていったといえるのではないでしょうか 。

公演では、登場人物たちが、自分たちとは異なる文化・言語に戸惑いながらも、”わからなさ”を放棄せず、わかろうとする姿勢をもったり、わからなくても認め合える関係性を築いたり、”わからなさ”を乗り越えて新しいコミュニケーションを開いたりと、人それぞれ多様な反応を示す点が興味深く、コミュニケーションの正解が必ずしも一つではない、という作品からの強いメッセージが感じられました。
ろう者と聴者がお互いの違いに気がつき、お互いを知り、共に何かを作り上げていくという、実際にこのプロジェクトが経験した創作プロセス自体を、物語を通して観客も追体験できるような構成でした。
また、音声言語の台詞と手話の台詞が舞台の複数箇所で同時に展開される場面がいくつかあった点も印象的で、音声言語だけの演劇作品では発生し得ないシチュエーションが生まれるのも、本作の特徴を効果的に活かした新鮮な演出表現でした。

観客の様々なニーズに応える鑑賞サポートを通して、劇場・ホールで舞台を鑑賞する体験を身近に
本プログラムにおいて、作品そのものに加えて特筆すべき点が、観客の多様なニーズを想定した鑑賞サポートの充実です。ロビーの中央部には鑑賞サポート窓口を設置し、多種多様なサービスが提供されていました。
例えば、音声が聞き取りにくいものの、手話は得意ではない観客の手助けになる字幕用タブレットの貸し出し。聴者の役者の音声言語での台詞と、効果音の様子が文字で表示される仕様で、『百層』の住人の立場として観劇することができます。また、難聴者の聞こえを支援するヒアリングループや、目が見えない・見えにくい人をサポートする音声ガイドも事前予約で貸し出しが行われていました。
さらに、大きな音が得意でない人に対しては耳栓の提供。気持ちを落ち着けたりお守りとして持っておいたりすることができるセンサリーキットは、必要になった場合にあわせて予約がなくても使えるサービスとして用意されていました。また、ロビー内にはカームダウンスペースを広めに確保し、誰でも使える開放的な空間のほか、奥には個室ブースも用意し、利用者自身がニーズによって選択できる環境が作られていました。

そうした環境やツールの充実に加え、人的なサポート体制も充実しており、ロビー内の案内スタッフは、「おたずねください」と記載されたサコッシュを提げて、話しかけやすい雰囲気に。指差しコミュニケーションシートや筆談用のメモと筆記用具など、手話・音声言語に関わらず相談に乗れる体制が整っていました。 まさにハード面・ソフト面ともに、東京都とアーツカウンシル東京が目指す“オールウェルカム”を総合的に体現した観客へのアプローチが実現されていたといえます。
それぞれの立場を想像しながら、“違い”から目を逸らさず、“わからなさ”を超えた先へ

本作のタイトル『黙るな 動け 呼吸しろ』には、異なる文化や言語を持つ他者に対して“わからない”と諦めてしまうのではなく、自分自身の生き方を表現しながら、まず他者との“違い”に気がつき、わからないなりに同じ社会に生きる者として呼吸を共有しながら、黙らず、動き続け、交流を図ってみること。その試み自体に価値があるというメッセージが込められています。言語は違っても、私たちは生きていくうえで、みな“呼吸”をしており、言語の違いによって表現方法が違っても、相手に伝えたい思いを表現しようとすること、それをわかろうとすることはできます。わからないことを必ずしもすべて解決することにこだわらず、相手の文化や思いを想像し、知ろうとする姿勢こそが、共生社会を実現するためのコミュニケーションにとって重要な鍵になるのではないか。“違い”を見つめ続けながら、同じ社会の一員として、同じように互いに呼吸して、共にある世界を改めて意識できた観劇体験でした。
文:前田真美
TOKYO FORWARD 2025 文化プログラム
ろう者と聴者が遭遇する舞台作品「黙るな 動け 呼吸しろ」
- 開催時期:2025年11月29日(土)
- 開催場所:東京文化会館 大ホール
- 主催:東京都、公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京、国立大学法人東京藝術大学
- 公式ウェブサイト:https://duk-tokyoforward2025.jp/
