公財)東京都歴史文化財団は東京都とともに、デジタルテクノロジーを活用することにより、都立文化施設の「誰もが、いつでも、どこでも芸術文化を楽しめる環境」の整備や、新たな鑑賞体験の提供に取り組んでいます。
このたび、江戸東京たてもの園では、東京都が2021年2月に開催した「UPGRADE with TOKYO」(都政課題解決に向けたスタートアップピッチイベント)で優勝した、株式会社GATARIが開発した世界初の音響特化型MRプラットフォーム「Auris(オーリス)」を活用した歴史的建造物の世界に没入できる新しい音声ガイド「音響MRミュージアム・トーク」の実証実験を行いました。
「MR」とは、「Mixed Reality」(複合現実)の略称で、VR(Virtual Reality:仮想現実)やAR(Augmented Reality : 拡張現実)をより発展させた、現実世界と仮想世界が密接に融合した空間を実現する技術。音響に特化したMR技術とはどのようなものなのか、美術館や博物館における鑑賞体験をどのように広げることができるのか。株式会社GATARIの代表取締役CEO 竹下俊一さんのインタビューとともに「音響MRミュージアム・トーク」をリポートします。
利用者はまず、「Auris」のアプリケーションがインストールされたスマートフォンをベルトに取り付け、メガネ型のオーディオデバイスを装着します。
このスマートフォンには、事前に空間をスキャンしたデータを基に作成されたデジタル空間に音が配置されており、スマートフォンのカメラが取得した現実風景と照合して利用者の位置情報を把握。その場所にあわせた音声が、メガネ型のオーディオデバイスから流れてくるという仕組みです。
例えば、「子宝湯」のなかで聞こえる音声アナウンスには、本物の銭湯で聞こえてくる音のように、学芸員の解説音声に響くエコーが加えられていて、臨場感たっぷり。
利用者は設定された場所に足を踏み入れると、自動的に学芸員による解説音声や環境音ががオーディオデバイスから流れ、利用者はハンズフリーで解説を聞きながら建物を鑑賞、興味がない場合は、その場から離れれば音声は聞こえなくなります。
『Auris』にはシナリオ機能がついていて、Aの解説、Bの解説をきちんと聞いた人だけが、ある地点に行くとCの解説を聞けるといった仕組みを作成することも可能。「『子宝湯』の音声も、入り口や脱衣場できちんと音声を聞いた人だけが、浴槽近くで流れる長い解説音声を聞ける仕組みになっています。
『この展示に興味がある人』には、より詳しい解説を、『あまり興味を持っていない人』にはシンプルな解説をそれぞれ提供できるため、利用者の好みで応じたコンテンツを提供できるのです。
「私たちが開発したMR技術を使ったサービス『Auris』は、美術館や博物館の音声ガイドのほか、さまざまな施設やサービスなどで活用することが可能です」と語るのは、株式会社GATARIの取締役CEOの竹下俊一さん。
竹下 「『Auris」は、空間のスキャンから、クラウドへの保存、復元体験までワンストップで実現することが可能なサービスです。利用者はオリジナルのアプリを搭載したスマートフォンとイヤホンなどの音声デバイスを装着し、音声情報が設定されたエリア内を自由に散策できます。通常の音声ガイドは、利用者が作品の目の前に立ち、デバイスのボタンを押し、再生ボタンを押すことで音声が流れる仕組みでしたが、『Auris』の場合は、利用者がその場所に行けば、自然に音声が耳に入ってくるので、よりその世界に没入できるのです。」
竹下さんは、東京大学在学中の2016年に「人とインターネットが融け合う世界を作る」ことをビジョンに掲げた株式会社GATARIを創業。音響に特化したMR技術を使用したサービス「Auris」をリリースし、注目されているスタートアップ企業です。
スタートアップと東京都の協働で都政課題の解決を目指すピッチイベント「UPGRADE with TOKYO」は2019年に始まり、2021年2月に開催された第11回のテーマは「通信技術・デジタル機器を活用した都立文化施設のアクセシビリティの向上」でした。このテーマに「既存の設備に一切干渉せずに空間の文化価値を高めるデジタル世界の構築」を提案したGATARIは、様々な施設にも応用可能なMR技術の可能性が評価されました。
※当日のイベントはこちらからご覧になれます。https://note.com/upgrade_tokyo/n/n0c6b3a490960
「Auris」の利点は既存の設備に全く手を加える必要がないこと。機材を設置できない文化財や、物理的な問題から看板を増やせない施設などでの活用が期待できます。
竹下 「釘や画鋲も打てない建物では、看板や機材の設置も非常に困難です。けれど、『Auris』は仮想空間に音声を設定するだけなので、いまある建物や施設に手を加えずにすみます。Wi-Fiのための器具やビーコンの設置も必要ありません。利用者によって流す音声を変えることもできるので、多言語での解説や子ども向けガイドなどの設定も可能です。」
今回、東京都とGATARIの取り組みのファーストステップとして、江戸東京たてもの園が選ばれた理由として、環境変化が少ない常設の歴史的建造物が展示されていることに加え、「Auris」との相性がよかったことがあげられます。
利用者により深い鑑賞体験をしてもらうにはどのようなコンテンツが良いのか、江戸東京たてもの園の学芸員や研究員と(株)GATARIのスタッフが意見を出し合う中で、学芸員が持っている情報量の多さやデジタルの良さなど、お互いに良い刺激や発見があったと言います。
竹下 「江戸東京たてもの園には、すばらしい歴史的建造物があり、語るべき情報がたくさんある。小さな解説パネルのなかにはその情報の全てを盛り込むことはできないけれど、『Auris』を使えば、学芸員さんの伝えたい情報を音声情報として全部伝えることもできます。ただ、屋外環境なので少し工夫が必要でした。天気や太陽の傾きが変わるだけで、カメラは同じものを捉えていても別のものだと認識してしまうこともある。また、通信環境が十分でない場所での課題も見えてきました。これからもいろいろな知見を積み上げていって精度を高めていきたいですね。」
すでに、水族館や寺院など、さまざまな施設で「Auris」は利用されてるそう。「今回、江戸東京たてもの園で実験を行いましたが、この経験をもっと発展させ、いろいろな美術館や博物館のよりよい鑑賞体験に協力していきたいと考えています。また、『Auris』のシナリオ機能を使って、エンターテイメント的な使い方なども提案していけるといいですね」
さらに竹下さんは、デジタルと現実の世界を利用者が自由に行き来できる強みを生かしていきたいとも語ります。「現在流行中のVRは、ゴーグルを使って仮想の世界に没入できることで人気となっていますが、『Auris』は、利用者が必要なときだけ仮想空間にアクセスし、音声を聞くことできます。こういったデジタルデータをインフラのように使えるようになったら、社会はより便利になると思います。この、デジタルと現実の両方の世界を自由に使い分けできる、選択できる社会づくりに、GATARIと『Auris』は貢献できるといいなと考えています」
新たな技術を活用した鑑賞体験の深化に向け、今後も都立文化施設では、さまざまなパートナーと協力し、準備を進めていきます。
取材・文:浦島茂世 撮影:CREW by KPS