「オペラ夏の祭典2019-20 Japan ↔ Tokyo ↔ World」の初年度、プッチーニ作曲『トゥーランドット』の上演が、去る2019年7月に東京文化会館で行われました。総合プロデューサーで新国立劇場オペラ芸術監督の大野和士が指揮をつとめ、演出はスペインの先鋭的演劇集団「ラ・フーラ・デルス・バウス」の6人の芸術監督の一人アレックス・オリエ、オーケストラは大野氏が音楽監督を務めるバルセロナ交響楽団、合唱は新国立劇場合唱団・藤原歌劇団合唱部、びわ湖ホール声楽アンサンブルの3団体が参加しました。
古代の「井戸」をモティーフにしたセットは壮観で、高所まで合唱が配置される。 Ⓒ堀田力丸
ヴィジュアル面では、モノトーンで頽廃的なムードが漂い、幻想的な仮想都市を彷彿とさせるセットが特徴的です。インドの階段井戸からデザインの着想を得たという舞台デザインは巨大で、迷路のような階段は舞台の背景全体を覆うほどの高さがあります。セットは可動式で、合唱は計算された動きで美しい模様を描くように動きながら歌っていたのが印象的でした。日本を代表するオペラ団体による合唱は勇壮で、舞台美術は音響的に反響板の役割も果たしました。
初日(7/12)キャストのトゥーランドット役は、ワーグナーの名手イレーネ・テオリン、トゥーランドット姫に求婚するタタールの王子カラフをルーマニア出身のテオドール・イリンカイ、カラフを慕う純情な女奴隷リューを国際的な活躍めざましい中村恵理、カラフの父である皇帝ティムールをイタリア人バス、リッカルド・ザネッラートが演じました。
左:「この宮殿で」で先祖の数奇な運命について歌うトゥーランドット。(イレーネ・テオリン) Ⓒ堀田力丸
右:高音まで強さを求められるカラフ王子はテノールの中でも最も過酷な役のうちのひとつ。(テオドール・イリンカイ) Ⓒ堀田力丸
2幕より高所から「この神殿で…」と、先祖のロウ・リン姫の悲劇を語る歌い出しのシーンは、タイトルロールの中でも最も緊張する場面ですが、テオリンは透明感のある鋭いソプラノの美声で歌い、格の違いを見せます。この後にすぐ、求婚者カラフに対する3つの謎かけの場面に入りますが、トゥーランドットの怜悧な高音はまったく乱れず、対するカラフの過酷な歌唱も勇敢で、表現的にも重みがありました。カラフはヴェルディの『アイーダ』のラダメス同様、細やかなニュアンス以前に、フィジカル面での喉の強さが求められる役ですが、イリンカイは声量で勝負するだけの歌手でなく、作曲家が求める内面的な次元にまで踏み込んでいたように見えました。
自己犠牲の象徴としてカラフに命を捧げたリューの死の場面。 Ⓒ堀田力丸
観客の共感を最も得たのは、女奴隷リュー役の中村恵理でした。国際的な歌手として複数のプロダクションでこの役を歌い、過去にエキセントリックな演出でも舞台に立ってきた中村は、この役に与えられたプライドと溢れるばかりの愛をすべてのシーンで表し、3幕でカラフを庇って自死する場面「氷のような姫君の心も」ではその圧倒的な歌唱と演技に、聴衆も水を打ったようになりました。
命を失ったリューの前で手を取り合う二人。衝撃的なラストシーンに続く。 Ⓒ堀田力丸
大きな話題となったラストシーンは、「プッチーニはこの作品にハッピーエンドを望んでいたわけではない」という演出のオリエのポリシーを反映したもので、リューの亡骸をそばにトゥーランドットとカラフが手を取り合い、大団円になると思われた瞬間に、トゥーランドットがナイフで自らの喉を掻き切って自決するという演出でした。死に瀕したプッチーニが書き上げたのは「リューの死」までであることは有名ですが、作曲家の死後、弟子のアルファーノが補筆した部分を「矛盾した音楽」ととらえた解釈といえます。観客は悲劇的なエンディングに大いに驚かされました。
7/13のキャストではアメリカ出身のソプラノ、ジェニファー・ウィルソンがトゥーランドット、カナダ出身のテノール、デヴィッド・ポメロイがカラフ、『トスカ』や『ラ・ボエーム』のヒロイン役で頭角を表している砂川涼子がリュー、レパートリーが広く安定感が素晴らしい妻屋秀和がカラフの父・ティムールを演じました。
左:ソプラノのウィルソンは強さの中にも優しさを失わないトゥーランドット。(ジェニファー・ウィルソン) Ⓒ堀田力丸
右:ドラマティック・テノールの真骨頂を聴かせたポメロイ。デヴィッド・ポメロイ) Ⓒ堀田力丸
ウィルソンは東京の初日(7/13)はやや緊張気味でしたが、美しい高音で困難な謎かけのシーンも歌い切り、ラストで見せるリューへの同情の表情も印象的でした。カラフ役のポメロイは北米のある種のタイプの典型的なテノールで、「張って」出す発声です。エンターテイナーぶりが見事で、強靭な喉で余裕の高音を立て続けに放ちました。
リュー役の砂川涼子は、中村恵理と甲乙つけがたい完成度で、プッチーニがこの役を本当に愛していたことを聴衆に知らしめてくれました。歌手自身の心のありようと、役への献身が聞き取れる名演です。
総合プロデュースを務めた指揮の大野和士は、イタリアオペラの傑作である『トゥーランドット』にスペインの気風を与え、バルセロナ交響楽団からイタリアの歌心とは一味違う、カタルーニャ的な色彩感を引き出していました。始終暗闇の中で鳴るオーケストラの「色彩感」は魔術的で、独特の手触りを感じさせるものでした。
日本を代表するテノールとバリトンがピン・パン・ポンを熱演。原作では「中国の宦官」とされるピン・パン・ポンはこの演出では衣裳で七変化する。(左:7/12, 7/14キャスト 右:7/13キャスト)Ⓒ堀田力丸
二公演を通して、巨大なセットにも増して「贅沢だ」と思えたのは、宦官ピン・パン・ポンを演じた6人の歌手の存在です。桝貴志(ピン7/12, 7/14)、森口賢治(ピン7/13)、与儀巧(パン7/12, 7/14)、秋谷直之(パン7/13)、村上敏明(ポン7/12, 7/14)、糸賀修平(ポン7/13)。いずれも、日本では主役級の役を高水準で歌える歌手たちが、泥だらけの衣装を着て、めまぐるしく動き、誠実な美声を聴かせるさまを見て「日本のエンターテイナーの誇り」を感じずにはいられませんでした。見逃してしまいがちですが、こうした脇役歌手の献身の力がオペラの命を支えていたのではないでしょうか。
舞台を高所まで昇降してドラマティックな合唱を聴かせた日本の合唱チーム、その合唱の動きを構成した大規模なオリエ演出を、影で大きく支えた演出補のスサナ・ゴメスも、高く評価されるべきでしょう。
エキゾティックで無国籍な雰囲気の合唱も大健闘。忍耐強く稽古を重ねオペラを成功させた。 Ⓒ堀田力丸
この日本のオペラの威信をかけた壮大なプロジェクトは、2020年6~7月のワーグナー作曲『ニュルンベルクのマイスタージンガー』へと続いていきます。指揮と総合プロデュースは同じく大野和士。オーケストラは大野が音楽監督を務めるもうひとつのオーケストラ、東京都交響楽団。世界的な歌手たちが既にキャスティングされています。
【日時】2019年7月12日(金)18:30、13日(土)14日(日)14:00
【場所】東京文化会館 大ホール
【日時】2020年6月14日(日)14:00、17日(水)12:00
【場所】東京文化会館 大ホール
文:小田島久恵
《バックナンバー》
●オペラ夏の祭典2019-20 Japan⇔Tokyo⇔World 『トゥーランドット』プレトーク(2018年9月1日開催)取材レポート