日本を代表する文化施設として、数々の美術館や博物館と共に上野公園に鎮座しているのが、今年開館60周年を迎えた「東京文化会館」です。開館以来 ‟音楽の殿堂” として、オペラ、バレエ、オーケストラ、室内楽、リサイタル……とさまざまな形で、歴史に名を残す国内外の一流アーティストたちがその舞台に立ち続けてきました。その60年間の足跡を、東京文化会館主催の「第18回 東京音楽コンクール」(2020年)優勝者で、今注目の若手ヴァイオリニスト前田妃奈さんとたどりました。
東京文化会館は、1961(昭和36)年の開館の4年後、1965(昭和40)年から「新進音楽家デビューオーディション」を実施し、日本の若手音楽家育成の一助を担ってきました。2003年にこのオーディションを拡充する形で生まれたのが「東京音楽コンクール」で、歴代入賞者たちの多くがさまざまなかたちで活躍しています。
今回東京文化会館を訪れた前田さんは、2002年生まれ。2020年のコンクールの優勝時には、高校3年生にして聴衆の投票で決まる聴衆賞も併せて受賞しました。現在も大学1年生という若さながら、国際的な活躍が期待されている若手ヴァイオリニストです。
前田「コンクールのリハーサルの日、初めて楽屋口から入館したのですが、エレベーターを降りてビックリしました!」
彼女が驚いたのも当然でしょう。東京文化会館のバックステージでは、コンクリート打ちっぱなしの壁という壁に、ところ狭しと出演者のサインが書かれ、ステッカーなどが貼られているのです。特に目を見張るのが大ホールの舞台袖で、この数十年間にわたってステージで多くの人々を感動させてきたオペラやバレエ公演のポスターや記念の写真・プレートなどが、出演者のサイン入りで飾られています。今も多くの人々から愛されている往年の大スターたちが直筆で残したものも数多くあります。
前田「コンクールでこの光景に触れ、このステージで積み重ねられてきた歴史の重みを感じると共に、おこがましいですけれど偉大な先人に続かなければ! と思いました。ここで演奏できることは私たち演奏家にとって非常に光栄なことなんだなって」
東京文化会館を設計したのは戦後の日本建築界を牽引した前川國男(1905~1986)で、日本を代表するモダニズム建築としても評価が高い建物です。しかし何といっても東京文化会館を特別な存在にしているのは、大ホール(2303席)と小ホール(649席)が誇る奇跡的な音響でしょう。どちらも豊かな残響を持ちつつ、細部まで音楽が明瞭に聴こえるのです(オペラ歌手の歌う子音のニュアンスまで、はっきりと聴き取れます!)。
前田「聴衆の一人として東京文化会館では色々なコンサートを聴いてきましたが、大ホールでは4階や5階の席でもソリスト(協奏曲の独奏者)の音が、オーケストラに埋もれることなく凄く綺麗に聴こえるんです!ちゃんと客席まで音が届くのが分かるからこそ、コンクールの本選で協奏曲を弾いた時も本当に気持ちよかったです!」
それ故に、舞台に上がる演奏家と客席に座る聴衆の双方から、東京文化会館は唯一無二の存在として愛され続けているのです。
前田「小ホールは、コンクールの前から周りの皆が“弾きやすいから大丈夫!”と言っていたんですけど、実際に弾いてみてそれがよく分かりました。どんな音楽、どんな演奏にも合うからこそ、こうしなければならないという制限がなくて、演奏中にもアイデアが湧いてくるんです。大小どちらのホールもこんなに自分にフィットして弾きやすいと思ったのは初めてでした」
東京文化会館で60年にわたって素晴らしい音楽が生まれ続けているのは必然のように思えてきますが、いくらハード(施設)が素晴らしくても、ソフト(企画)が伴わなければ、ここまでの存在感は発揮できていないでしょう。前述した「東京音楽コンクール」に加え、世界の潮流を意識した最先端の企画や試みも多くなされていますが、新しさを常に追いかけるだけでなく、壁のサインなどのようにこれまでの歩みを丁寧に保存・継承する姿勢もまた、東京文化会館を ‟音楽の殿堂” たらしめている要素です。
東京文化会館の「音楽資料室」は1961年に開設された数少ない音楽専門の図書館。音楽大学と同等レベルの資料や音源を揃えているだけでなく、東京文化会館のこれまでの60年間ほぼすべての公演の記録(公演当日に配布されたパンフレットなど)を保存しています。まさに日本のクラシック音楽の歴史そのものでもあります。以下に紹介するパンフレットで、東京文化会館を彩ってきたエポックとなる公演を振り返ります。
1.レナード・バーンスタイン
1961年4月7日に開館した東京文化会館は、4月17日~5月6日にかけて「1961 東京世界音楽祭」と題した23公演を実施しました。特に注目を集めたのが1958年に音楽監督に就任したばかりのバーンスタイン率いるニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の初来日となった3公演で、副指揮者を務めていた小澤征爾(当時25歳)も一部楽曲を指揮しています。
1961年 東京世界音楽祭 ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団
※以下、キャプションのリンクはすべて、開館当初からの公演情報を検索できる「東京文化会館 アーカイブ」各公演詳細ページ
2.ダヴィッド・オイストラフ
数々の有名ヴァイオリニストも東京文化会館のステージに立ってきましたが、ソ連を代表するダヴィッド・オイストラフ(1908~74)は1967年と69年に来日した際、東京文化会館で10回ほどコンサート(協奏曲・リサイタル)を行っています。当時のパンフレットの音楽評論家や有名演奏家による文章は充実しており、読み応えがありました。
1967年 ダヴィド・オイストラフ ヴァイオリン演奏会
3.エフゲニー・ムラヴィンスキー
1970年代当時、マニアからはカラヤン&ベルリンフィルを超える存在として伝説化していたムラヴィンスキー指揮国立レニングラード・フィルハーモニーアカデミー交響楽団が、1973年に初来日公演を行ったのも東京文化会館。彼らが上野で繰り広げた奇跡的な名演奏は、大ホールの明瞭な響きが見事に反映された録音を通して今でも追体験することができます。
1973年 国立レニングラード・フィルハーモニーアカデミー交響楽団 演奏会
4.サイトウ・キネン・オーケストラのはじまり
桐朋学園の共同創設者であり、小澤征爾を筆頭に音楽家を数多く育て上げた齋藤秀雄の没後10年にあたる1984年に開催された演奏会。これが母体となり3年後に結成されたのが世界で高く評価されたサイトウ・キネン・オーケストラです。
前田「メンバー表を見ると、お世話になってきた先生方ばかりです。皆さんお若いですね!」
1984年 齊藤秀雄メモリアルコンサート
5.小栗まち絵
日本を代表するヴァイオリニストのひとりで、前田さんの師匠でもある小栗まち絵さんもまた、何度も東京文化会館のステージに立ちました。
前田「50年前ですけれど、先生、今と変わらないです。アメリカに留学される前の20代前半に、小栗先生も東京文化会館でコンチェルトを演奏されていたんですね!」
1971年 東京都交響楽団 第37回定期演奏会
6. ステレオ・コンサート
最後は少し変わり種。今ほど気軽にクラシック音楽を聴けなかった時代には、ステレオ・コンサートと題された、レコードを皆で聴くイベントが開催されていました。東京文化会館では1961~63年にかけて10回ほど小ホールで行われています。
前田「小ホールでハイフェッツ!? しかも無料!?……と思ったら、レコードだったんですね!」
1962年 第27回 学生のためのステレオ・コンサート
前田さんが東京文化会館のステージで初めて演奏をしたのは、「東京音楽コンクール」のリハーサルの日でした。前田さんのような若手の演奏家が、今後の東京文化会館の歴史をどのように彩っていくのか期待が募ります。
文:小室敬幸
写真:中川周
【場所】東京都台東区上野公園5-45
東京文化会館では、開館60周年を記念した取り組みとして、舞台芸術創造事業〈国際共同制作〉オペラ『Only the Sound Remains -余韻-』(2021年6月6日公演終了)のほか、インスタグラムの公式アカウントをスタート。また、館内のレストラン「フォレスティーユ精養軒」では、60周年コラボ企画として開館当時の復刻洋食メニューを提供。その他、上野・御徒町周辺の地域と協力し、若手音楽家支援事業なども行っています。
東京文化会館 instagram公式アカウント
1961年の開館当時のようすや、建物の様々な角度からとらえた写真など、東京文化会館の魅力を紹介しています。
「フォレスティーユ精養軒」コラボ企画
館内のレストラン「フォレスティーユ精養軒」では、60周年コラボ企画として、開館当時のメニューを復刻し提供しています。
開館60周年記念オリジナルグッズ
館内のミュージックギフトショップ「A.P.J.PLAY MUSIC」と和小物ショップ「匠音」では、開館60周年を記念したオリジナルグッズ(トートバッグと一筆箋、クリアファイル)を数量限定で販売しています。